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パンフレット

トミー トランティーノ (TOMMY TRANTINO) 展
「限られた世界で」


TOMMY TRANTINO

トミー トランティーノ




  
トミー・トランティーノの作品1989年筆)

アーヴィング・ステットナー
文筆家 画家 雑誌「ストローカー」出版 2004年没

トミー・トランティーノの自叙伝Lock the Lock1974年にAlfred Knopf社から出版され、それには彼自身の手による、インク画も挿入されている。作家のヘンリー・ミラー{1979年没}は、その本について次のように述べている。「今世紀を代表する、この驚異的な本は......現代のドフトエフスキーが麻薬常習者特有のことばで、人類破滅の兆候を語ったものだ。世間にまったくその名を知られていない、今をときめく男こそは、ニュージャージー州の人知れぬ、不毛の地の独房のなかに閉じ込められている、トミー・トランティーノそのひとだ。」

 彼の個展は、おおげさに聞こえるかもしれないが、歴史的重要性を秘めたイベントであると、あえて言おう。偉大な本は、牢獄のなかで生まれうるものであり、Cervantes,Marquis De Sade, Wildといった作家が証明したように、事実、その誕生が確認されてきた。だが、絵画ということになると?それは、ほんとうに、まれな現象だ。

 そのとおり、人間に不可能なことなどありえない。あるいはトミー・トランティーノの絵が、ぼくらに限りないインスピレーションを与える証であるように、人間の精神というものは、すべてを可能にするということだ。それは、唯一、芸術家が思いのまま駆使できる武器ともいえる、自己表現という道具を彼らが行使するときの精神力のたまものだ。そのなかで芸術家は、彼らの奥深い情感、フラストレーション、苦難、絶望、人類愛を表現する。その表現の必要性は、あまりにも性急であるため、彼らは手じかにあるどんな媒体を用いても、それを行使する、それは、安っぽい便箋、砕けた卵の殻、ただの砂糖であったりする。苦痛にあえいで、赤く縁取りされた、その唯一の目が、空間を空虚に見つめている。その身の毛のよだつような、片目の恐ろしい怪物のような顔をトランティーノが描くことは、不可解なことだろうか?いいやそんなことはない。彼は、あの冷たい、人間性に欠ける極限状態に、日々直面しているのだから。それは、電気椅子、あるいは原子爆弾のスイッチを押すという、偽善をやってのけることですら可能にするのだ。

 ぼくらはみな、まるで鏡を見るように、彼の絵の中に自分自身の姿を見つける。なぜなら、ぼくらは一人残らず、今日の社会における囚人だからだ。たとえ牢獄の外にいても、「自由の身」であるとされているにもかかわらず。ぼくら現代人はことごとく、その不安定な社会状況、廃れた習慣、狂気、暴力、マスメディア、悪事を黙認し続ける政治家達に自由を奪われている、現代に生きる囚人なのだ。

 それと同時に、トランティーノの絵には、ある種の歓喜が存在する。第一に、それは自分自身を発見した人間の喜びだ。彼はトレントンのステートプリズンで9年間、死刑囚として独房に閉じ込められていたときに、初めて絵を描き、執筆を始めたのだから。そしてまた、そこには創造者、美を創造するという奇跡を自分の指先に見出し、自分のなかに自由を見出した喜びがある。彼独自の世界を創造できるということを発見した喜びがそこに存在する。

  
トミーとアーヴィングの贈りもの
加藤三保子ステットナー

私がトミーと初めて出会ったのは、いまから15年前にさかのぼる。ペンシルバニア州の片田舎の小さな町に、亡き夫、アーヴィングと共にニューヨークを離れて移り住んだばかりの私は、その後数年に渡り、夫に伴い近くに住んでいたトミーの奥さんのチャーリーの車に同乗し、ニュージャージー州のプリズンに彼を訪ねた。監獄に友人を訪ねるなど夫と出会わなければ、堅物の私には起こり得なかったことだろう。だがそのことに対して、私は何の抵抗も感じなかったし、彼が警官殺しの罪で牢獄に閉じ込められているという事実も、なんの障害にもならなかった。もちろんそれは、夫とトミーの確固たる信頼関係が前提にあったからだが、トミー自身から感じた誠実さ、まわりに対する細やかな気遣い、自然で、人間味溢れる人柄のせいであったのは紛れもない事実だ。トミーはそこを訪れる誰をも温かく迎え入れたように、夫の伴侶として突如現れた日本人としての私の存在を温かく受け入れるような心の広さも持ち備えていた。奥さんのチャーリーは暴動突発などの可能性を心配していたが、私は娘がお腹にいるときも、よちよち歩きを始めた彼女を連れても、度々彼のもとを訪れた。娘を見るなりトミーは、満面の笑顔で彼女を抱き上げると友人たちに見せに行き、ちょっとしたトリックや冗談で娘を笑わせてくれた。

当時、夫とトミーはすでに20年ほど前から交友があり、トミーの手紙、詩、インク画は夫が編集、出版していた同人雑誌「ストローカー」の初刊以来、頻繁に掲載されていた。奥さんのチャーリーと夫は、トミーの自由を獲得するための努力を惜しまず続けていた。そして絶えずトミーに、執筆や絵を続けるようにと励まし、1989年には、ニューヨークで初の個展も実現させた。

トミーとの交友において忘れることができないのは、彼との書簡のやりとりだ。私は夫のトミーに対する友情に感化され、彼を励ますつもりで手紙を書き始めた。だが実際は、トミーのこちらを思いやる温かい手紙に逆にいつも励まされ続けてきた。それはつねに肯定的な前向きさと、ユーモアにさえ満ちていた。彼の精神は監獄にいながらにして、いかなる偏見や規制からも解き放たれ、限りなく自由だった。トミーの自叙伝「ロック・ザ・ロック」を読んで感じるのは、彼の数々の反逆的行為が、個人に対するすべての社会的規制や不当性に対する心からの抵抗だったということだ。そして現在トミーがこの社会の縮図の中で、深い困難に直面している人々に献身的に援助の手をさしのべている事実は、その彼の精神が根底にあったからに他ならない。

トミーは、夫がくれたかけがえのない数々の友人のひとり。二人の友情、そして彼らが共有する不屈の精神、そのポジティヴ思考に私は何度胸を熱くさせられたことだろう。二人の信じるところの同胞愛、または人間愛、寛大さ、与えるという行為、そしてユーモアを持って人生を謳歌してやまない、その人生観に触れられたことは、なんという幸運だろう。トミーは自分の個展に夫の絵も同時に展示されることを喜んでくれている。また昔のように肩を並べられることを。その作品からは、二人のあまりにも人間らしい、あくまでも自分に正直な生き様のように、虚勢や、因習が完全にはぎとられ、そして自己がありのままに表現されている。いかなる困難や苦境にも屈せず、あるいは受け入れながらも、創造し続けた情熱がその絵には刻み込まれている。

  
ジャン・バルジャンの2倍も刑務所で暮らした男

本田 康典
ヘンリー・ミラー作「北回帰線」その他 翻訳 ヘンリー・ミラー協会会長

 トランティーノに会ったのは200211月だった。フィラデルフィアの駅からタクシーで彼のアパートに20分くらいで到着した。1938年生まれだと自己紹介のときに言ったら、彼は大声をあげてぼくに抱きつき、何月生まれかと尋ねた。さそり座だと言ったら、自分のほうが兄貴だと反応した。そのときぼくの脳裏にひらめいたのは、トランティーノが仮釈放された2月某日が彼の誕生日に当たるはずだということだった。

 トランティーノはぼくにとって詩集『ブタ箱に錠をおろせ』の作者であったが、彼のアパートに足を踏み入れたとたん、画家になった。居間の壁面にびっしりと絵が掛けられていたからだ。この部屋の絵は終身棟で描いた、と彼は言った。寝室の壁面も絵で埋め尽くされていたが、こちらは死刑棟で描かれたという。絵画から放射される暗い熱気を浴びていたとき、ぼくはウインストン・チャーチルを思い起こした。第二次世界大戦のとき、ナチスが激しい攻勢をかけていたころ、このイギリスの首相はしきりに絵筆をとった。そのとき彼は責任感や重圧を忘れることができた。トランティーノも絵に熱中しているときは、自分の置かれた境遇を忘れていたに違いない。

 帰国してから、トランティーノ展が日本で開催されることになったら、『レ・ミゼラブル』の主人公の二倍(つまり、38年間)も獄中生活を送った男であると紹介したいと思うが、どうかとメールを出したら、大賛成だ、テレビでミュージカル『レ・ミゼラブル』を見たことがあるが、あの音楽が忘れられないから、会場であの曲を流してほしいという返事を受け取った。

  

DEJA VU(既視体験)

青山 マミ
ジョン・ケージ「小鳥たちのために」 翻訳

菅沼荘二郎氏のアトリエで初めてトミー トランティーノの絵を見せてもらった時、近年になく、意識の深層部をゆさぶられる思いがした。彼の絵には、無意識下にしまわれている、いつかどこかで感じた言葉にならぬ感覚を呼び覚ます不思議な力がある。はるか昔の夢で出会った不条理な光景を思い出させるものがある。彼の小さな絵の宇宙には、存在することの恐怖を照らし出す無の空間がある。その一方で存在する種々雑多なものが凝縮し複雑に絡み合っている原初的な充溢がある。色のない暗黒の中には未だ存在しない負の存在が潜んでいる。手と目の間に横たわる埋め尽くしようのない距離。懐かしい無定形なノッペラボウの平面。象徴化された目玉や唇や微生物や羽根のような形態のアラベスク。後退してゆく色の領域と透きとおるトルコブルーと浮き上がってくる色の対比が生み出す捻れた空間。牢獄という閉じられた世界で、死と直面して生きることによって、トミーは個的な生命の不安や苦痛を直視し、それを超える宇宙的な生命の流れを直感したに違いない。彼の絵はそのような根源的なレベルで語りかけてくる。

  

暴力でなくユーモアを

平松 れい子
演出家

 デュシャンが便器を作品にしたという、その行為がアートであったように、トランティーノの数々の行為は、アートである。独房でただ一つ許されていた本と新聞を薄暗い光で読み、かろうじて外の世界で起きていることを知ったトランティーノは、弁護士宛にラディカルな手紙を書く。それが、当時ベトナム反戦運動の指導者であったアビー・ホフマンの手に渡り、ホフマンが行った戦争抗議行為を裁く厳粛な法廷という場で、紙ヒコーキにして飛ばされる。また別の時、刑務所長宛にアメリカ国旗と国歌を要求する手紙を出す。返事はノーであることが予めわかっていたからであり、その行為で愛国心を皮肉ったのだ。「暴力でなくユーモアを使って立ち向かったんだ、暗闇の中ではユーモアが太陽の光になる」とトランティーノ。他にもハンガーストライキなど数知れない。

そんなトランティーノの描く絵は、部屋の中ではなく、部屋の外に向けて飾りたくなる。

  

色彩の魔術

古賀 孫
雑誌「ストローカー」同人 ヘンリー・ミラー協会会員

 トミーさんの「ロック・ザ・ロック」を読んだ後で色彩の魔術さながらの絵の数々を眺めるなんてちょっとした贅沢です。独房のなかで育まれた思想がそこに描かれ、彼の人生観が暗示されています。ヘンリー・ミラーもアーヴィングさんも彼の最もよき理解者でした。私も昔、極東裁判で死刑宣告を受け巣鴨プリズンで絞首刑になった軍人二人を知っていますので、そんなことが妙にトミーさんと気が合う理由かもしれません。出獄後、トミーさんは社会奉仕の仕事に多忙な日々を送っています。「ロック・ザ・ロック」のカバーの顔写真でみると36才の彼はなかなかの美男子で、イタリア映画にでも出そうないい顔をしています。「東京に行ったら鮨屋に行こう。オレが奢ってやるから。鮨だぞ」と先日の手紙にありました。その日が来るのを首を長くして待っているところです。

  
  
トミー・トランティーノ略歴
1938 ニューヨークに生まれる。
1964 警官殺しの罪で死刑を宣告される。
1972 終身刑に減刑。
1974 自叙伝「ロック・ザ・ロック」がクノッフ社から出版される。
1989 NYのギャラリーで個展。
2002 出所
  

トミーさんのこと

菅沼 荘二郎

1989年春私はニューヨークにしばらく滞在した。その時当時の美術新聞に掲載された展覧会の紹介記事に、特別気になる絵を見つけ、それを頼りにイーストヴィレッジの画廊へ見に行った。それがトミーさんの個展だった。会場には「ストローカー」という見なれない雑誌が置いてあった。アーヴィング・ステットナーという人の作る雑誌で、彼も絵を描き、今近くで個展をしているとのこと、早速見に行った。会場でニコニコした、気の良さそうな老人と会った。それが個展主のアーヴィングさんだった。アーヴィングさんの作る雑誌にトミーさんの絵とか文章が沢山載っていて、トミーさんをとても高く評価しているようだった。ここでアーヴィングさんは面白い話をした。かの有名な文豪、北回帰線の作家ヘンリー・ミラーと、とても親しくしていて、ストローカーにミラーも絵とか文章を掲載しているとのことだ。ストローカーにトミーさんとミラーの往復書簡を掲載した特集があり、その本をアーヴィングさんから頂いた。とても気の良さそうなニコニコ顔のアーヴィングさん、世界的に知られているものの、異色で変人、文豪ヘンリー・ミラー、刑務所生活のトミーさん、この図式は何とも興味のあるものだった。この時以来アーヴィングさんとはとても仲良くなり、東京の私の家に2004年に亡くなるまで何回も宿泊していただいた。トミーさんとも手紙のやり取りがある。この後私は日本に帰ってから、禅に関して強い興味を持つようになった。それには彼らが根底に持つダダ的なフィーリングが影響しているようにも思える。